指導者としての追求

初心忘るべからずという諺があるように
長くその道で活動をしていると
どうしても昔の志や気持ちは忘れがちになります。

時代の変化やニーズに対応させることも大事なのですが
初心や基本、本質というところは
変わってはいけないんですよね。

初心忘るべからず

この初心忘るべからずなんですが、

時や経験を重ねるとそれに慣れてしまうので、物事を始めた頃の志や新鮮で謙虚な気持ちというものを忘れてはいけない

こんな感じで解釈している方も多いかもしれませんが、
実はこの意味はもっと深いところにあるんです。

 

僕の指導者になったきっかけは
正直あまり深い思いはなく

「サッカーやってたからサッカーを教えて給料もらえればいいかな」

実はこの程度で、
その後あるスポーツクラブに就職しました。

そんな軽い気持ちで指導者の第一歩を踏んだわけですが
この世界はそんな甘いものではなく
そこで指導者としての根本的な事を一から叩き込まれました。

指導者は子供に教えられることで成長する

そのスポーツクラブでの指導対象はほとんどが幼児です。
大人が普段使う言葉は通じないし子供は理解できないことは当然できない
動かない、わかってもらえない、通じないのオンパレードです。

一番堪えるのは子供達からの「つまんなーい」。この言葉はしばらくトラウマになります。

1年目、2年目は
「わかんなーい」
「つまんなーい」
「つかれたー」
子供たちからこういった正直な感想を多くいただきまして

どうしたら子供が動いてくれるか、
どうしたら子供が楽しんでくれるか、

上達とかできるとかよりも
時間内に計画した指導を進めていくことでいっぱいいっぱい。

3年くらいでようやく指導らしい指導ができるようになり、
子供の動きや行動、反応を予測できるようになってきたり。

もちろん今でも指導者としてはまだまだだとは思っています。

 

で、初心忘るべからずの本当の意味はここにあるんですね。

この言葉を使ったのが世阿弥という室町時代の能楽者なんですが
彼が本来そこで伝えようとしたのは

「習い始めたばかりの頃の自分のみっともない姿や苦労したことの一つ一つを忘れるな」
「初心忘るべからず」の意味変化の考察
https://sankakudo.blog.fc2.com/

という意味なのです。さらに

「芸を初めて何年になっても、その時々に初めての課題に突き当たる。それを時々の初心(の状態)という。若いときには若いときの、老いたときには老いたときの初心がある。それを忘れず、そのときの苦労やみっともない状態を現在と比較して自分を顧みれば、今自分がどのように成長しているのかを正確に認識することができる。」
「初心忘るべからず」の意味変化の考察
https://sankakudo.blog.fc2.com/

少し長い文章ですが
初めの頃の未熟な姿を忘れずにいると
その時々にある壁や課題が
自分の成長であり
その壁や課題が初心となって
次の成長につながるというわけですね。

 

ベクトルを変えること

話を戻しますが

自分の指導が絶対だとは思っていませんし、
常日頃もっといい指導をしたいと思っています。
指導が終わったあとは反省ばかり。

同じ指導法が通じる子供は二人としていません。
一人一人に違ったアプローチで伝えていかなくてはならない。
毎回が壁です。

 

でも指導の本質は

「子供の為」であり

自分の為の指導であってはならないんですね。

指導とは教えるのではなく
「子供がそれを好きになる」
という方向に向けること。

子供がそれを好きになる事が
一番の上達方法であり
大人がとやかく言ったところで

子供が好きでなかったら限界があるんです。
これが子供の可能性を引き出す一番の良い指導だと思っています。

指導者として20年以上歩んできましたが
毎回が「初心忘るべからず」なのです。

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